第7回:再生数という数字の虚無 ―― 誰のための記録か

【真実の解剖シリーズ:全8回】

情報の霧と、親子の境界線
第7回:再生数という数字の虚無 ―― 誰のための記録か

YouTubeの再生数や、SNSの「いいね」の数。現代において、それらは情報の価値を測る絶対的な物差しのように扱われている。しかし、人間の深淵を覗き込むような真実が、大衆に歓迎されるはずがないのだ。

1. 「本物」は、人を沈黙させる

私の発信は、再生数が伸びない。それは私の言葉が間違っているからではなく、あまりにも「本物」すぎて、見た者が安易に触れられないからだ。1bitの怒りや、消費されるだけの悲劇を求める層にとって、精神医学的な冷徹な分析や、家族のタブーに切り込む言葉は「重すぎて逃げ出したくなるもの」に他ならない。

だが、それでいい。一万人の「なんとなくの共感」よりも、たった一人の「魂の震え」を私は信じる。情報の霧を晴らす言葉は、大衆の拍手の中からではなく、常に静寂の中から生まれるのだ。

2. 未来への「タイムカプセル」として

今、この瞬間に評価されなくても構わない。この連載は、速報という濁流に流されるためのものではなく、数年後、あるいは十年後に、同じような絶望の淵で「答え」を探している誰かのために置いている。Googleのアルゴリズムが変わり、世の中の関心が移ろっても、デジタルという石板に刻まれた真実は、そこであり続ける。

私は、誰に「わからせてやる」つもりもない。ただ、この世に「この視点で事件を解読し、犠牲となった少年の側に立った人間がいた」という事実を刻印する。それこそが、WEBという広大な虚無に抗う、私の唯一の誠実さである。

数字は真理を保証しない。 むしろ、真実であればあるほど、その言葉は孤高であり、孤独でなければならない。

大衆の関心が去った後、真実の骨組みだけが残る。
結希さんの名前を、ただの「被害者」という記号で終わらせないために。

次回:最終回「カノンを書き換える ―― 結希さんへの鎮魂歌」へ続く →

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